僕と彼女の夏

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その夏は、風のように早く通り過ぎていった。
忘れられない夏。
去年も、今年も、来年も。
僕はここで、この曲を弾くのだ。
あのころのままの、音楽室で。



第一楽章『音楽室の少女』


 揺れる夏の陽炎。
 ぎらぎらと輝く太陽の陽射しが、首筋を強く焼きつけていた。
 空に向かって高く背を伸ばす夏草が覆い茂る小径。足下の砂が乾いていて、一歩足を踏み出すごとに煙が立ちのぼる。
(あつい……)
 今日は夏休み初日だというのに、なんで僕は学校に向かっているのだろう。そう考えると同時に、心の中で小さく溜め息を吐く。
 それは昨日のこと。
 終業式のあとに配られた通知票を机の中に忘れてしまったのがすべての始まりだった。
 たったひとつミスの所為で、せっかくの夏休み初日を学校に向かって歩くという行為で潰すことになってしまったのは、もったいないことこの上ない。
 また、僕は溜め息を吐いた。
 すると、玉のような汗が額から一滴、頬を伝って流れ落ちる。それは首筋をたどっては、真っ白なTシャツに吸い込まれてゆく。
 本当に暑い。
 学校に向かう理由すら体の中の水分と一緒に、どこかへ抜け落ちてしまうんじゃないか、学校に着くまでに脳が溶けてしまうのでは――そんなことを考えてしまうほどの暑さだった。
 早く通知票を引き取り、家に帰って冷たいクーラーの風を体全体に浴びながらテレビゲームで遊びたい。現実でいくらレベルダウンしてもいいから、テレビゲームの中でくらいレベルアップしていたい――
 そんな希望を胸に抱きながら、僕は突き刺さるような陽射しを受け続け、夏の重みを身体全体に感じつつ、学校に向けて足を進めてゆく。
 何度も、何度も、溜め息をつきながら。



 学校が視界に入ると同時、僕は額の汗を右腕で拭った。汗が滲んだTシャツの胸元をぱたぱたとしながら、肌に空気を触れさせつつ、校門を通り抜けてゆく。
 夏休みとはいえ、校門はいつもと同じように開いていた。
 グラウンドでは知った顔数名がサッカーに興じている。どうやら部活中のようだ。サッカー部の顧問である教師が大声をあげていた。僕はその様子を横目に見ながら、校庭を横切ってゆく。
 すぐに下駄箱にたどり着いた。
 ハンドバックから上履きを取り出し、僕は校舎の中へと入ってゆく。
陽射しが直接あたらないだけに、校舎の中の空気は、外と比べて居心地の良いものだった。
 誰も居ないひとりきりの廊下――いつもの学友たちのざわめきは聞こえない。聞こえるものといえば、セミの声くらいのものだ。
いつもと同じ廊下でも、なんだかとても新鮮な感じがする廊下を、僕は目的の場所である職員室に向かって歩いてゆく。
 目の前にある階段をのぼり、二階に到着――そこには職員室へと通じる扉がある。
「失礼します」
 扉を開きながら、僕は声をあげる。
 職員室に入るなり、担任の姿は簡単に見つかった。僕の担任以外、他には誰も職員室には居なかったからだ。
 がらんとした室内で、タバコをふかしながらパイプ椅子にもたれかかっている、ポニーテールで眼鏡をかけたひとりの女教師。
 それにしても、なんというやる気のない態度だろう。これが本当に教育者なのだろうかと疑ってしまうほどにだらけている。
 しかしその女性こそが僕の担任である、藤谷美弥子先生なのだ。
「すみません、先生。通知票を取りに来たんですが……」
 どんな態度であっても、あくまで先生は僕の担任だ。僕は先生に近づき、丁寧な口調で声をかける。
「通知票な、そこに置いてあるから勝手に持っていってくれ」 先生はさも面倒くさそうに答えて、机の上を首で示した。その場所に視線を向けると、そこには僕の名前の書かれた通知票がある。
「連絡、ありがとうございました。どこかで落としたんじゃないかと、冷や冷やしていました」
「ああ、そうだ。お前の通知票、大変な目にあってたぞ」
「え?」
「それな、放課後に残って大掃除をしていたやつの一人が見つけたんだけどな、まあ、当たり前のように、みんなの前で晒されていたぞ」
「……それ、マジですか……」
 昨日の夜、机の中に忘れていた通知票が見つかったという電話が先生からあったとき、そういうことになってないかと少しは思ったけれど、本当にそんなことになっていたとは。
 最悪の展開だった。
「郁太、お前は成績があまり良くないんだから、ほんっとに気をつけろよ。公開するなら、見られても恥ずかしくないくらいには勉強しろ」
「善処します……」
 同じクラスで勉強しているだけに、通知票を見られずとも、僕のだいたいの成績なんてものは、クラスメイトたちには知られている。
 それでも段階評価で二や三ばかりの通知表を見られるというのは、あまり気分の良いものじゃないし、何より、笑いものにされていたことが気になる。新学期になった時、みんな忘れてくれていることを願うしかない。
「今日はどうもありがとうございました……」
 僕は教育者らしくない格好で椅子にもたれかかったまま、教育者らしいことを口にした先生に対して溜め息混じりにそう言って、踵を返した。
「帰るのか?」職員室の出口向かって歩き出した僕の背中に声がかかる。もちろん先生の声だ。「いいなぁ、家にはクーラーあるのだろ?」
「そりゃ、ありますけど……」僕は振り返って答える。「今時、クーラーがない家のほうが珍しいでしょう」
「だろうな。だが、先生の子供のころは、それが普通だったんだ。それにな、ここにもクーラーはないんだ。それがどういうことかわかるか?」
「えっと……」
「答えが遅い」
 速攻で時間切れだった。一秒足らずだ。もう少し時間が欲しい。あまりにも短すぎる。
「答えはだね、すんげぇ不快指数が高くなるのだよ」先生は机に激しく両手をついて、椅子から勢いよく立ち上がった。「あーっ! なんでここにはクーラーがないのだっ! なんで生徒は夏休みなのに出勤しなきゃならないのだ! よりによってこのボロ扇風機もロクに風をおくってきやがらねぇしっ! 夏はもともと嫌いだってのに、更に嫌いになるってもんだぁあああああああああっ!」先生はそばにあった扇風機に蹴りを入れた。扇風機の破片が勢いよく宙を舞う。
「し、失礼しました!」
 僕は猛獣から逃げるように、ダッシュで職員室から飛び出し、ピシャッと音が立つくらいに強い勢いで扉を閉めた。
 先生はきっと暑さで頭がおかしくなっているのだろう。
 日ごろからちょっとおかしな人なのだが、ここまで気が立っているのははじめて見た。
 あのまま傍で話に付き合っていると自分の身にもあらぬ火の粉が降りかかってきそうだっただけに、間違いなく逃げて正解だったと思う。
 というか、あんな状態の先生を見たら、誰でも普通に逃げるっての。



「ふぅ……」
 廊下に出ると同時、僕は深い溜め息を吐いた。
 なぜか今日は溜め息を吐いてばかりな気がする。
 なにはともあれ、これで用は済んだわけだ。
 これ以上、学校に居る理由は何もなかった。
 先生には悪いが、早く家に帰ってクーラーの風で涼みながらテレビゲームをプレイしよう。
 そして、もう忘れてしまおう。
 通知票は忘れてはいけないが、嫌な記憶は忘れたほうが良い。
 クラスメイトに通知票を見られたことも、何もかもぜんぶ、忘れてしまおう。
 通知票を肩にぶら下げていたカバンの中に片付け、僕は廊下を歩き出した。
 そのときだった。
「……ん?」
 音が――聞こえたのだ。
 ほんの小さな音だった。
 気になった僕は足を止め、目を瞑って集中し、その音に気を配らせる。
「やっぱり、聞こえるよな……」
 聞こえるのはピアノの音だった。
 音は美しく連なり、一つの曲になっている。
 しかし、その音は小さすぎて、何の曲であるかまではわからない。
 しかし、それでもわかることはあった。
 その演奏は、幼いころに少しだけピアノを習ったことがある僕にでもわかるくらいに、とても上手なものだということだ。
 ――いったい、誰が演奏をしているんだ?
 そもそも、どうして夏休みの今、こうしてピアノの音が聞こえるのだろう。
いったい、どこからこの音は聞こえてくるのだろう。
 学園の七不思議――そんな単語が、頭の中にちらつく。夜の校舎でピアノを演奏する幽霊なんて、どこの学園にもある怪談だ。
 しかし、今は夜でもない――
となれば、いったいなんだというのだろう。
吹奏楽部はこの学校にあるが、練習に熱心な部ではないので夏休みに練習をしているとは思えないし、そもそも今、ピアノ以外の音はまったく聞こえないのだ。というか、そもそも吹奏楽でピアノって使うっけ? よく覚えてない。
ただ、今の僕にわかることといえば、この学校でピアノがある場所くらいのものだ。講堂と音楽室である。
 講堂はこの場所からかなり遠いところにある。講堂があるのは今僕が居る東館ではなく、その正面に存在する西館だ。よって、講堂のピアノの音がここまで聞こえることは、いくら今の学校内が静かだとはいえ、ありえないことだ。
 これで講堂の可能性は消える。
となれば、この音の発生源は音楽室しか残っていない。音楽室はこの校舎の最上階――職員室から二階上の、四階に位置している。 可能性は一つに絞られた。
その瞬間、僕はピアノの音に――そのメロディに誘われるように、階段をかけあがっていた。
 興味と好奇心が、僕の体を突き動かしていた。
 すぐに僕は音楽室の前にたどり着く。
 音楽室の扉は、ほんの少しだけ開いていた。
 そこから流れ出てくるのは、ピアノの音色だった。さっきより、ずいぶんはっきりと曲が聞き取れる。
 それでも、僕はその曲が何の曲であるのかは、まったくわからなかった。その曲は、僕がいままで一度も聞いたことがない曲だったからだ。
 扉のすき間から、僕は音楽室の中を覗き見る。
 太陽の光が黒い塗装に反射し、きらきらと輝いくグランドピアノピアノが視界に映った。その前には、長い黒髪の女の子が座っていた。 
 女の子は、ずいぶんと真剣な表情で、ピアノを弾いている。
 はじめて見る女の子だった。
 同じ学年なら大抵の顔はわかるのだけど、見たことがない子だったのだ。
 違う学年なの子なのだろうか?
 もっとしっかりと顔を見たい。そう思った僕は、自然と身体を音楽室側に寄せていた。
「あ……」
 しまったと思ったときには、もう遅かった。
 僕は入り口のところにある小さな段差に躓いて、体のバランスを崩してしまったのだ。
 低い衝撃音が、音楽室と四階の廊下に響く。
 僕は勢いよく、音楽室の中に倒れ込んでしまったのである。
「え……?」
 ピアノの音は、その声と共に停止する。
 その声は、僕の発したものじゃない。
 ピアノの前に座っていた少女のものだった。
 僕はすぐに立ち上がり、少女のほうへと視線を向けた。
 彼女は椅子から立ち上がり、ピアノの向こう側からこちらをじっと見ている。
 空中で、視線がぶつかった。
 …………。
 そのまま、無言の空間が数秒続く。
 じっと見ていたら吸い込まれてしまいそうになるくらい、美しく澄んだふたつの瞳が、僕を見つめ続けていた。
 かなりかわいい、女の子だった。
 自然と僕の胸は大きく高鳴り、顔はあつくなってくる。
「ご、ごめん、音が聞こえたもんで気になって。それに、扉が開いていたから」
 沈黙に耐えかね、僕は口を開いた。
 覗いていたことへの謝罪――ピアノの邪魔をしたことへの謝罪をこめて。
「あ……そう、なんだ……」
 少女の小さな唇がはじめて動いた。
「えっとさ、さっき弾いていた曲、いい曲だったね。あれ、なんて曲なの?」
 どうにか話をつなごうと、僕はあわてて口にする。
「え?」目を丸くして、少女は答える。「それ、ほんと?」
 僕はそれほど音楽に詳しいわけじゃない。それでも、あの曲がいい曲だというのはなんとなくわかった。聞いていてとても気持ちがいい曲だったし、なにせ僕はあの曲に惹きつけられるようにして、この場所にやって来たくらいなのだ。
「本当だよ。なんていう曲なの、あれ?」
「まだ、タイトルは決まってないの」
少女は肩をすくめて答える。
「え、どういうこと?」
「わたしの、作ってる曲なんだ」
恥ずかしそうに?を赤く染めながら、少女は言った。
「作ってるって――曲を?」
「うん、そうだよ」
 簡単に少女は頷くが、曲を作るのは簡単なことではないはずだ。もちろんピアノを六歳ではじめ、八歳でやめた僕に出来ることではない。
「あの……」少女は僕に問いかける。「どうして、ここに来たんですか?」
「さっき言った通りだよ。音が聞こえて、気になったんだ」
「あ、そうでしたね」少女はにっこりと微笑む。
「うん、そういえばさ、君もどうしてここでピアノを弾いているの? 家では出来ないの?」
「家に、ピアノがないから」俯いて、少女は答えた。「本当の家にはあるんだけど、今住んでるところにはないの」少女はあわてて自分の言った言葉を訂正する。
「それじゃ、今は帰省中かなにかなの?」
「うん、そんなところ」
「そっか、いつここに来たの――って、今日からだもんな、夏休み。今日からに決まってるような」言って、僕はある事実に気が付いた。「そういうことは、君、この学校の生徒じゃないんだ」
「え……あ、その……」
「いいよ。僕はそんなの気にしないし。ここで君がピアノを弾いていること誰にも言わない。それは約束する」
「ありがと」
 少女の表情が一気に明るくなった。
「あのさ……良かったら、さっきの曲をもう一度弾いてくれないかな? もう一度聞きたいんだ、あの曲」
「……うん、いいよ」
 少女は舞い落ちる一枚の薄い布のように、ゆっくりと両手をけん盤の上に置いた。
 そして、演奏が始まる。
 とても、明るい曲調だった。
 それでも、曲の前半は、ゆっくりと、スローテンポで進んでゆく。
 彼女の演奏は、けん盤を叩くのではなく、そのひとつひとつを優しく撫でているように見えた。
 しかし、次第にその指先は、手つきは、荒々しさを増してくる。
 それに伴って、曲は、だんだんと盛り上がっていった。ここから更に曲は盛り上がるのだろう――そう、僕が予測したときのことだった。
 演奏は、そこで停止した。
「……あれ、どうしたの?」
 僕は目を丸くして言った。彼女が弾くのを失敗したようには見えなかった。
 いったいどうしたというのだろう。
「僕、なんかよけいなことをしたかな?」僕がなにか気に障るようなことをしたから、演奏をやめてしまったのだろうか。
 だとすれば、もったいないことをしたものだと僕は思う。
「ううん。違うの。あなたは何も悪くない」
 少女はあわてて答える。その言葉で、僕はほっと胸を撫で下ろした。
「これで、この曲は終わりなの。まだ完成していないんだ」
「そうなんだ……」それなら、いきなり途中で曲が終わった理由も納得できる。「曲は、いつ完成するの?」好奇心から僕は訊いてみる。
「うーん、わからない」彼女は困ったように眉をしかめて答えた。「こういうのって、自分が完成と思ったら完成だし……納得できなかったら永遠に完成しないし。でもそうやってたらいつまでたっても完成しないから妥協もしなきゃいけない。だから自分で期限を決めるんだけど……。そうだね、今年の夏休み中には完成させたいな」
「完成するといいね」
 僕は少女に向けて、にっこりと微笑んだ。
「……うん」
 少女は大きく首を縦に振る。
「そうだ、弾いてくれたお礼になにか飲み物、奢るよ。ここ、暑いだろ。喉、乾いてないか? 飲みたいものがあったらついでに買ってくるけど」
「え、飲みたいもの……?」
「なんでも言ってくれ」
「それなら、サイダーがいい」
「わかった。それじゃ、ちょっと待ってて」
 そう言って、僕は音楽室を飛び出した。

<続く>
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